5月

1日 労働者 聖ヨセフ(任意) この記念日は1955年にピオ12世教皇によって定められました。イエスを育て、青年イエスと家庭生活を 送ったナザレの大工ヨセフは、キリスト者に労働の尊さの模範を示している。(『毎日の読書』より)
2日 聖アタナシオ司教教会博士 295年、エジプトのアレキサンドリアに生まれる。アレキサンドロス司教に同行してニケア公会議に出席し、 やがてその後継者となった。アレイオス派と激しく争い、そのため多くの苦難に遭い、何度か追放された。 正統信仰を解説し弁護するすぐれた著作を残した。373に死去。(『毎日の読書』より)
3日 聖フィリポ 聖ヤコブ フィリポはベトサイダに生まれ、初めは洗礼者ヨハネの弟子であったが、後にキリストの弟子となった。 キリストの従兄弟のヤコブはアルファイの子で、エルサレムの教会を始め、「ヤコブの手紙」の著者である。 厳しい禁欲の生活を送り、多くのユダヤ人をキリストへの信仰に導いた。62年に殉教した。(『毎日の読書』より)
12日 聖ネレオ 聖アキレオ殉教者
(任意)
二人は裁判所に勤めるローマの兵士であったが、キリスト教に入信して兵士を辞めたため、 おそらくディオクレチアヌス帝の治世下(四世紀の初め)に処刑された。彼らの墓はローマのアルデアチーナ街道沿いにあり、 そこには彼らにささげられた大聖堂が建てられている。(『毎日の読書』より)
12日 聖バンクラチオ殉教者
(任意)
おそらくディオクレチアヌス帝の迫害(四世紀初め)のときにローマで殉教した。 彼の墓はローマのアウレリア街道沿いにあり、その上にシンマクス教皇が教会堂を建てた。(『毎日の読書』より)
13日 ファティマの聖母
(任意)
ファチマは、ポルトガルの山の中にある村です。1917年5月13日、ここに聖母がご出現なさったのは、第一次世界大戦さなかのことでした。聖母のご出現を受けたのは、3人の牧童でした。 そのとき、一番年上が ルチアという10歳の女の子、次がルチアのいとこで9歳のフランシスコという男の子、そしてその妹で7歳のヤシンタでした。彼らは、祈ることは知っていましたが、まだだれも読み書きを知りませんでした。 この日、いつものように羊たちと家を出て丘で遊んでいると、突然、非常に激しい閃光が光り、小さな柊(ひいらぎ)の木の上に、光そのもののように輝く貴婦人が立っていました。 貴婦人は、子どもたちに6ヵ月間続けて、毎月13日に、今日と同じ時間に、ここに来るようにと願われました。そして、6回目のご出現で、貴婦人は「ロザリオの元后」であることを名乗られ、ここに聖堂を建てて欲しいこと、毎日コンタツ(ロザリオ)を唱えることを続けるように願われ、もうすぐ戦争が終わり、兵士たちが家にまもなく帰ることを告げられました。 聖母は、ファチマでも、ルルドと同じように、病人を癒されました。そしてこのご出現で、3人の子どもたちにいくつかの啓示を与えられました。それは、現代の人びとのおごりに対する警告です。(『Laudate』より)
14日 聖マチア使徒 マチアはキリストの復活の証人となるためにユダのかわりに選ばれ、11人の使徒の仲間に加えられた。これについては使徒言行録1・15-20に述べられている。(『毎日の読書』より)
18日 聖ヨハネ一世教皇殉教者(任意) トスカーナ地方に生まれ、523年にローマ教皇に選ばれた。彼は東ゴート族の王テオドリックの特使としてユスチノ一世皇帝に会うためにコンスタンチノープルに送られた。 526年、獄中で死去。(『毎日の読書』より)
20日 聖ベルナルディノ(シエナ)
司祭(任意)
1380年、トスカーナ地方のマッサ・マリッティマに生まれる。フランシスコ会に入会し、司祭に叙階されると、背強をしながらイタリア全土をめぐり、 大きな成果を収め、イエスのみ名にたいする信心を広めた。 また、フランシスコ会において学問を推進させ、規律の遵守を徹底させるために働き、神学の著作を著した。1444年にアクイラで死去。(『毎日の読書』より)
21日 聖クリストバル・マガヤネス司祭と同志殉教者(任意) クリストバル・マガヤネス司祭と24人の殉教者は、主に1920年代後半、カトリック教会に対する弾圧が激しかったメキシコで殉教した人びとである。彼らのうち、3人の信徒、デヴィッド・ロルダン・ララ、マニュエル・モラレス、サルヴァトール・ララ・プンテ以外は教区司祭である。彼らが殉教した場所はハリスコ州とサカテカス州など、8ヵ所にわたる。 1917年、メキシコでは新しい憲法が発布されたが、内容は聖職者たちに対する弾圧をはじめとした教会にとっては厳しいものだった。その後、教会、学校、神学校は閉鎖され、外国の司祭たちは追放された。司教団がこれに反対するなか、一部の信徒たちが反乱を起こし、「クリステロ戦争」(1926年−1929年)がはじまった。 この信徒たちの暴動に対し、司教団はあくまでも平和的な解決を求めた。司祭であったクリストバル・マガヤネス(1869年−1927年)も、暴力による反乱に反対した。政府は、これを彼を捕らえるよい機会とし、「クリストバルは、クリステロ戦争を奨励している」と虚偽の報告をした。彼は1927年5月21日、野外ミサを司式していたときに逮捕された。彼は死刑執行者にゆるしのことばを述べ、裁判を受けることなく、聖アグスティン・カロカ司祭(1898年−1927年)とともに、殉教した。クリストバルの最期のことばは、「わたしは無実のうちに死ぬ。わたしのメキシコの兄弟たちが一致するように神に願いつつ、わたしの血をささげよう」だった。 クリストバルをはじめ、殉教した司祭、信徒たちは、政府の迫害と信徒たちの抵抗運動という混乱のなか、信仰のうちにゆだねられた人びとを守ろうと力を尽くし、その結果、死を持って自らを神と兄弟たちのためにささげた。2000年5月21日サン・ピエトロ広場において、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列聖された。(『Laudate』より)
22日 聖リタ(カシァ)修道女
(任意)
リタは、イタリアのウンブリアの小さな村に生まれた。両親が高齢になってから生まれたので、神からいただいた賜物として、両親は大切に育てた。リタは、カシアにあったアウグスチノ会の修道院に入ることを夢見ていたが、両親が決めた青年に嫁いだ。2人の間に双子が生まれたが、夫の激しい性格に苦しみ、リタは祈りによって家庭生活を支えた。ある日、町を二分する政党の争いに巻き込まれた夫が、暴力を受けて亡くなった。リタは、息子たちが復讐をするのではないかと恐れたが、2人はまもなく病気で亡くなった。 一人になったリタは、若いときに希望していたアウグスチノ会に入会しようとしたが、夫の事件の関係で拒否された。しかし、神からの招きを確信して祈り続けたリタは、政党間に和平が実現したことにより入会を許された。リタは妻として、母として、未亡人として、修道者として、愛に根ざした平和を人びとにもたらした。 夫との長く苦かった生活は、リタに不和をおさめる方法を学ばせた。家庭内に問題のあるところでは彼女の忠告が喜ばれ、そのとおりにすると必ず幸福が帰ってきた。60歳のある日、リタが十字架像の前で祈っているときに、キリストの茨の冠から額に一本のとげを受けた。またリタは、「望みのないときの助け手」と言われている。 生涯の最後の4年間は寝たきりとなったが、忍耐と明るい性格によって、姉妹たちと訪れる人びとを支え、1457年5月22日、76年の生涯を閉じた。(『Laudate』より)
25日 聖ベダ司祭教会博士
(任意)
673年、絵一句のウェアマスの修道院の近くに生まれる。聖ベネディクト・ビスコプから教育を受けた。 やがて、修道院に入って司祭に叙階され、教授と著作に専念。教父たちの伝承に従って神学と歴史と聖書解釈に関する書物を著した。 735年に死去。(『毎日の読書』より)
25日 聖グレゴリオ七世教皇
(任意)
本名はヒルデブランド。一〇二八年頃トスカーナ地方に生まれ、ローマで教育を受け、修道生活に入った。 教会の改革に力を注いだ教皇たちを教皇使節として助けた。1073年、教皇おに選出されるとグレゴリオ七世と名乗り、教会改革に熱心に取り組んだ。 皇帝ハインリッヒ四世の反対を受け、サレルノに追放されて1085年に死去。(『毎日の読書』より)
25日 聖マリア・マグダレナ(バッジ)
おとめ(任意)
1566年、フィレンツェで生まれる子どもの頃から信心深い人となるように教育されてカルメル会に入会し、祈りと節制の生活を送った。 教会の改革のために熱心に祈り、同会の修道女たちを完徳へ導いた。神から多くの特別の恵みを受けて、1607年に死去。(『毎日の読書』より)
26日 聖ペフィリポ・ネリ司祭 1515年、フィレンツェに生まれる。ローマに赴いてキリスト教的生活を送りながら、青少年のために働き、病気に苦しむ貧者を助ける団体を作った。 1551年に司祭に叙階され、信仰生活についての講話、宗教音楽、慈善業が行われる集会を組織した。それは、集まった場所から 「オラトリオ」と呼ばれるようになり、オラトリオ会に発展した。彼は隣人愛、福音的な単純さ、喜びにあふれる神への奉仕に秀でていた。1595年に死去。(『毎日の読書』より)
27日 聖アウグスチヌス
(カンタベリー)司教
(任意)
福音宣教のために聖グレゴリオ一世教皇によって597年にローマの聖アンデレ修道院から英国に遣わされた。 カンタベリーの司教になり、ケントの方エセルバートに助けられて多くの人をキリスト教信仰に導き、特にケント王国にいくつかの司教区を創立した。605年頃、5月26日に死去。(『毎日の読書』より)
31日 聖母の訪問 イエスを宿したマリアが聖霊に導かれてエリサベトを訪問したこと(ルカ1・39-56)は、すでに古代の末期から祝われた。 ローマでは八世紀に降誕節中に聖母の訪問が祝われ、東方教会には昔から7月2日にその祝日があった。第二バチカン公会議後の典礼刷新で「エリザベトはもう六か月になっている」(同1・36)という 天使ガブリエルのマリアへの言葉と、「マリアは三か月ほどエリサベトのところに滞在した」(同1・56)ちう聖書の記述に従って、この祝日は「神のお告げ」(3月25日)と「洗礼者ヨハネの誕生」(6月24日)の 間に移された4月の初めは復活祭とかなさることが多いので、この祝日はマリアの月とされている5月の最後の日に定められた。(『毎日の読書』より)