1日 |
諸聖人 |
東方教会では、4世紀からすべての殉教者たちを復活節中のある日、あるいは、聖霊小売後の最初の主日に記念していた。
すべての聖人のことを11月1日に祝う習慣の起源についてははっきりわかっていないが、おそらくアイルランドやイングランドで行われるようになり、8,9世紀に、全西方教会に広まったと思われる。
今は神のもとに迎えられ、すべての人のためにとりなす聖人たちに心を向ける祭日である。(『毎日の読書』より) |
2日 |
死者の日 |
諸聖人の祭日の翌日にすべての死者を記念する習慣は998年にクリュニー修道院のオディロンによって始められ、クリュニーの修道士たちの影響によって11世紀には広く行われるようになった。
ローマ教会には1311年の暦に初めて記されているが、それ以前からロ−マでもこの記念が行われていたと思われる。
( 『毎日の読書』より) |
3日 |
聖マルチノ・デ・ポレス修道者 (任意) |
1579年、ペルーのリマでスペイン人の父と黒人の母の間に生まれた。
若いときに薬学を学び、後にドミニコ会に入会。薬学の知識を用いて多くの貧者たちを助けた謙遜と苦行に秀でており、聖体に対する熱意は著しいものがある。1639年に死去。
( 『毎日の読書』より) |
4日 |
聖カロロ・ポロメオ司教 |
1538年、ロンバルディアのアローなに生まれる。
市民法と教会法の博士号を取得した後、伯父のピオ四世教皇によって枢機卿に任命され、ミラノの司教となった。
よい牧者として、司教区全体をたびたび巡回し、教区会議を数回開き、人々の救霊のためになる多くのことを定め、教区民のキリスト教的な道徳を高めるために尽くした。1584年11月3日に死去。
( 『毎日の読書』より) |
9日 |
ラテラン教会の献堂 |
コンスタンチヌス帝によってローマのラテランに建てられた大聖堂の記念は、12世紀からこの日に行われていたと伝えられている。
始めはこの祝日は、ローマ司教区だけで祝われていたが、「ローマと世界のすべての教会堂の母であり頭」とよばれたこのラテラン大聖堂をたたえるため、全世界のローマ典礼の教会で祝われるようになった。
この祝日は、ペトロ座に対する一致と親愛のしるしである。 ( 『毎日の読書』より) |
10日 |
聖レオ一世教皇教会博士 |
イタリア中部のトスカナ地方に生まれた。440年に教皇に選ばれ、よい牧者として、また信者たちの救霊のために尽くす父として活躍した。
あらゆる手を尽くしてキリスト教の正しい教義を擁護し、教会の一致を保つために熱心に努めた。民族大移動で襲ってくる諸部族の侵入を防ぎ
あるいは、すくなくともそれを和らげるために力を注いだその功績から「大レオ」と呼ばれている。461年に死去。 ( 『毎日の読書』より) |
11日 |
聖マルチノ(ツール)司教 |
316年バニノニア(現在のハンガリー)地方で異教徒の家庭に生まれる。兵士になるが、洗礼を受けると兵役を辞し、フランスのリグジェー近郊に
修道院を設立して修道生活に入り、聖ヒラリオの指導を仰いだ。やがて司教に叙階され、ツールの司教に選ばれた。よい司牧者としての模範を
示し、多くの修道院を設立して聖職者たちを教育し、貧者に福音を伝えた。397年に死去。 ( 『毎日の読書』より) |
12日 |
聖ヨサファト司教殉教者 |
1580年頃、ウクライナのキリシャ正教の家庭に生まれる。カトリック教会に転じ、バジリオ修道会に入会した。司祭に叙階され、後にポロックの司教に
選ばれ、教会一致のために大いに献身した。1623年、カトリックとの一致に反対した人々の手で殺害された。( 『毎日の読書』より) |
15日 |
聖アルベルト司教教会博士(任意) |
1206年頃、ドイツのドナウ川沿いのラウインゲンに生まれ、バドバとパリで学問を修めた。ドミニコ会に入り、多くの土地で教鞭をとり、大きな功績を
残した。レーゲンブルクの司教となり、国々と町々の間に平和が保たれるように絶えず務めた。神学と自然科学に関する多くのすぐれた書物を著した。
1280年、ケルンで死去。 ( 『毎日の読書』より) |
16日 |
聖マルガリタ(スコットランド)(任意) |
1046年頃、父親が追放されていたハンガリーに生まれる。帰国後、スコットランド王マルコム三世と結婚し、8人の子どもに恵まれた。
よい母親と女王としての模範を示し、1093年、エジンバラで死去。( 『毎日の読書』より) |
16日 |
聖ゲルトルードおとめ(任意) |
1256年、チューリンゲン地方のアイスレーベンに生まれる。おさなくしてヘルフタのシトー会修道院に入り、熱心に勉学に励み、特に文字と哲学を学んだ。
やがて、神に心を向けるようになり、完徳の道に熱心に励み、祈りと観想に身をささげた。1301年11月17日に死去。( 『毎日の読書』より) |
17日 |
聖エリザベト(ハンガリー) 修道女 |
ハンガリー国王アンドレアの娘として、1207年に生まれた。若くしてチューリンゲン公ルードビッヒに嫁ぎ、3人の子どもをもうけた。
祈りと黙想に専念し、夫の死後は清貧な生活を送り、病院を建てて病者の世話をした。1231年、マールブルクで死去。( 『毎日の読書』より) |
18日 |
聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂(任意) |
すでに12世紀には、バチカンの聖ペトロ大聖堂とオスチア街道沿いの聖パウロ大聖堂では、これらの聖堂の献堂の記念日が祝われていた。
二つの聖堂は四世紀に建てられ、善社はシルベストロ教皇によって、後者の献堂式はシリチオ教皇によって行なわれた。この記念日が全世界のローマ典礼の教会で
祝われるように定められたのは、近代になってからのことである。ローマの聖マリア大聖堂の献堂の記念日(8月5日)において、神の母聖マリアが祝われるように、
きょうはキリストのおもだった使徒である二人をほめたたえる日である。( 『毎日の読書』より) |
21日 |
聖マリアの奉献 |
543年のこの日、エルサレムの神殿があった場所の近くに建てられた新しいマリア聖堂の献堂式が行なわれた。わたしたちは東方教会のキリスト者と一緒に、
無原罪の御宿りのときから恵みで満たされてたマリアが、聖霊の働きによって、子どものときから自分自身を神にささげたことをこの日の祝うのである。 ( 『毎日の読書』より) |
22日 |
聖セシリアおとめ殉教者 |
聖セシリアはローマの殉教者であり、五世紀にローマで彼女にささげられた聖堂が建てられた。彼女に対する崇敬は、彼女の殉教物語のゆえに大いに広まった。
この物語において、彼女は処女であることを選び、キリストへの愛のために殉教した者として描かれ、キリスト者の女性の優れた模範として示されている。 ( 『毎日の読書』より) |
23日 |
聖クレメンス一世教皇殉教者(任意) |
クレメンスは、ペトロの三代後の教皇として一世紀松のローマ教会を治めた。コリントの教会にあてて、その平和と一致を回復させるための
優れた手紙を送った。 ( 『毎日の読書』より) |
23日 |
聖コロンバン修道院長 (任意) |
六世紀前半、アイルランドに生まれる。古典文学と神学を学んだ後、修道生活に入り、フランスに移ってからは多くの修道院を設立し、厳しい会則をもってそれを治めた。
やがて、フランスから追放されてイタリアに行き、ポッピオに修道院を設立した。一般信徒と修道者たちの信仰を高めるうえで大きな業績を上げ615年に死去。( 『毎日の読書』より) |
24日 |
聖アンデレ・ジュン・ラク司祭 と同志殉教者 |
ベトナムにおけるキリスト教の迫害は、17世紀初めから19世紀末にかけて行われた。1988年に列聖された117人の殉教者の一人であるアンデ・ジュン・ラクは、
1823年に司祭に叙階され、国内各地で牧者として働いたが、1839年に斬首刑に処せられて殉教した。
117人には、8人の司教、50人の司祭、59人の信徒が含まれている。( 『毎日の読書』より) |
25日 |
聖カタリナ(アレキサンドリア)おとめ殉教者(任意) |
アレキサンドリアのおとめであり殉教者であったと伝えられている。生来、鋭敏な洞察力と英知に満ち、強い精神を備えていた。
遺体は、シナイ山の聖カタリナ修道院で熱心に崇敬されている。( 『毎日の読書』より) |
30日 |
聖アンデレ使徒 |
ガリラヤのベトサイダの出身。初め洗礼者ヨハネの弟子であったが、後にキリストに従い、ペトロをキリストのもとに連れて行った(ヨハネ1・40-42)。
イエスにお目にかかりたいともし出たギリシャ人の願いを、フィリポとともにイエスに取り次ぎ(同12・22)、また、イエスが5000人に食べ物を与えた
奇跡の前には、わずかなパンと魚を持っている少年がそこにいることをイエスに告げた(同6・8-9)。聖霊降臨の後、多くの地方に福音を宣教し、
ギリシャ南部のアカイアで十字架につけられたと伝えられている。( 『毎日の読書』より) |