名古屋教区典礼委員会
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典礼の霊性−ミサの式次第に学ぶ(3)      神言修道会司祭 市瀬英昭

  感謝の典礼の中心は「奉献文」です。これは感謝の祭儀全体の頂点であり中心ですが、この部分にも私たち人間の本性に対応する事柄が含まれています。 それは「捧げる」という行為です。私たちは単に何かを「受ける」ことだけで満足できる存在ではなく、何かを誰かに「差し出す」ことで喜びを感じ、本来の自分らしく生けていけるように造られている、と言えます。 ここで、父なる神に捧げられるのは「感謝の祈り」であり、「キリストのからだであるパンとぶどう酒」ですが、さらに進んで、「私たちのからだ」、つまり私たちの生活自体、に及んでいくと言うことができます。 「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です」(ローマ12,1)。ちなみに、東方典礼の用語では、日常生活のことを「典礼の<後の>典礼」と言うそうです。 祭儀中の捧げと日常生活の捧げとがつながっていることを思い出させる意味ではふさわしい表現だと思われます。
  ところで、「犠牲」という日本語には、何か否定的な響きがあります。非人間的なことを強要されたり、不慮の事故にあう、といった意味合いがそこにはあるようです。 しかし、聖書や典礼の文脈の中に置かれるとき、この言葉は、全く異なった積極的な意味を帯びてきます。なぜなら、これがイエスの生涯そのものを表現することもできるような大切な用語となるからです。 そこでは、犠牲は苦しみとの関連ではなく、愛との関連で語られるべき事柄である、ことが明らかになってきます。一般的に言っても、私たちは、何かを捧げることによって人間的にも豊にされていく、という経験を持っているのではないでしょうか。 たとえば、親が子どもの成長のために捧げる苦労と犠牲によって、人間としても親として成長させられていく、といったようなことです。自分を差し出し、捧げることで、かえって人間的に深められていく、という逆説です。これは例外なく私たちすべてにあてはまる原理であると思われます。
  「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエスは言われ(ヨハネ15,13)、実際にそうされました。捨てる、という言葉の直訳は「前に置く」です。 どうぞ自由に使ってください、という気持ちで自分をその人の前に置くこと。差し出すこと。イエスは、私たちにご自分の命を差し出されています。父から私たち人類への贈りものとして。 この驚くべき出来事に対する私たちの「感謝」が奉献文の中心をなしています。父なる神に向かって感謝の祈り、奉献文の言葉を司式者と共に祈りながら、そうする中で、私たち自身が何者であるか、あるべきかが、分かってくる、ということが起こります。
  感謝の祈りを、司式者と共に、父なる神に捧げることによって、私たちの側には、自己中心性が砕かれ、癒され、変容させられていく、平たく言うならば、私たちの人間性が回復させられていく、という事が起こります。 その出来事を可能にするのは、教会の信仰が凝縮された祈り、「奉献文」である、ということを心に刻みたいと思います。
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