名古屋教区典礼委員会
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典礼の霊性−ミサの式次第に学ぶ(2)      神言修道会司祭 市瀬英昭

  人はパンだけではなく「意味」によっても生きている、と言われます。「パン」は私たちが生存するために必要な「衣食住」を指しており、これを否定することはできません。 しかし、それ以上に必要なことがあるようです。「何を持って生きるかではなく、どこへ向かって生きていくか」について、つまり、生きる意味について示唆を与えてくれる「ことば」を私たちは必要としています。 これはすべての人が真面目に向き合わなければならない課題です。では、私たちキリスト者は、このことについてどのような理解を持っており、ミサの中でどのように体験しているでしょうか。
  ことばの典礼の部では、聖書の言葉の傾聴と応答が中心になります。実際には、ミサ祭儀の全体が、神からの「語りかけ」と私たちの「応答」というダイナミックは対話の構造をなしていますが、 それがこのことばの典礼の部では顕著に表れています。ことばを聴くこと、つまり、「受ける」ことは私たち人間にとってもっとも原初的な事柄です。人間を「ことばを聴く存在」である、と定義した人もいます。 ミサでは、単に一般的な言葉ではなく、「神のことば」を聴く、あるいは、聖書の言葉を神のことば「として」聴く姿勢が大切とされます。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まる」 (ローマの信徒への手紙10,17)。考えてみれば、私たちの「いのち」も功績、努力なしにまるごと「受けた」賜物であって、受けない、聞かない人生というものはあり得ないことになります。 しかし、そこに留まらず、聞いた言葉に応える、あるいは、応えたい、という気持ちも持っています。このコミュニケーションへの欲求も私たちの心の底に深く根差したものであるといってもよいでしょう。 そこでは、相手の言葉を繰り返したり応えたりするだけでなく、自分から語り出す、ということも起こります。このように、人間の根本的な構造に対応する仕方で「ことばの典礼」も整えられています。
  ことばを「食べる」という表現は聖書的なものであるといってよいでしょう。通常の食べ物の場合も、噛み締め、味わいながら、生きていく栄養にする、ということがありますが、 神のことばについても同様のことが言えます。ミサの中で朗読される言葉を単に知的に理解するというよりも、からだで受け止め、思いめぐらし、味わいながら、身に染みることばとして、 腑に落ちることばとしていただき、信仰の旅路を共に歩んでいく力にする、ということが肝要となります。
  「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つ言葉によって生きる」(マタイによる福音書4、4=申命記8,3)ことが実際のミサの中で体験されるためには、 私たちの「こころの琴線」を日ごろから整えておく必要があるように思われます。
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