名古屋教区典礼委員会
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典礼の霊性−ミサの式次第に学ぶ(10)      神言修道会司祭 市瀬英昭

  集会祈願が終わると、ことばの典礼が始まります。ミサの二大柱は「ことばの典礼」と「感謝の典礼」です。そして、この二つは「一方なしには他方を理解することが出来ないほど深く結ばれています」(ベネディクト16世『主のことば』55項)。信者が「ことばの典礼」と「感謝の典礼」という「二つの食卓」で養われるべきことを種々の第二バチカン公会議以降の教会公文書は繰り返しています。以下では、ことばの典礼について素描しますが、その前に、「ことばの働き」もっと言うなら「ことばによる出会い」という点について考えておきたいと思います。
  哲学者の上田閑照氏は、西田幾多郎について何冊かの本を書かれていますが、その一冊『西田幾多郎−人間の生涯ということ』のあとがきに次のような印象深い文章が記されています。「いろいろな機会に、よく私は西田幾多郎に会ったことがあるかと尋ねられます。そのたびに、戸惑い、そして自分でも不思議な感じになります。私は西田先生には会っていませんので、<会ってはいません>と答えますが、そう答えながら、同時に、会っていないということはあり得ないような気持ちが残ります」。この文章は次のように説明できると思われます。上田氏は、西田幾多郎の弟子である西谷啓冶氏らの紹介(ことば)を通して、また西田自身の著書(ことば)を読むことによって、彼について知り、彼と対話し、彼に共鳴し、実際には会ったことのない「西田幾多郎」に「出会った」と言えるのではないでしょうか。生前の西田に通常の意味で会った人は多くいたと思われます。その人たちのすべてが彼と出会い、共感し合い、影響を受けたとは言えないでしょう。しかし、通常の意味で会っていない人が、会っていないからこそ、かえって、西田の本質的な次元、つまり、彼が本当に求めていたこと、その信念、その心、その息吹に触れ得た、と言えるのではないでしょうか。つまり、「ことば」によってこの二人は、もっとも深い意味で「出会った」のだと思われます。私たちは、「ことば」によって「その人自身」に触れます。
  カトリック聖書学者のR.ブラウンも「復活したイエスと<信仰において>出会うために、過去の世代のほうが今の世代よりも恵まれていた、というわけではない」と書いていて私たちを励ましています。因みに、ことばの典礼の食卓とキリストのパンの食卓を共に大切にするカトリックの信仰が、「ことばとしるし」という標語で表現していることも重要だと思われます。「イエズスはケリグマの中へ復活したと言えるばかりでなく、また彼は典礼の中へ復活したとも言わなければならない」(W.カスパー)との文章は、復活の主キリストとの「出会い」はことばによってだけではなく、感謝の典礼のしるしによっても体験される、ということを意味しています。これについては後述することといたしましょう。
  さて、「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」というヒエロニムスの言葉があります。しかし、魚は水の中にいるときに本当の魚であるように、聖書は典礼祭儀の中に置かれるときに、その本当の力が発揮される、と言えます。その意味では、上の標語は「典礼を知らないことはキリストを知らないことである」と敷衍することもできます。典礼祭儀の中で聖書のことばを分かち合うことの大切さを再認識したいと思います。
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