名古屋教区典礼委員会
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聖木曜日― 主の晩さんの夕べのミサ

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集会祈願

      いつくしみ深い父なる神、
      あなたのひとり子は死に向かわれる夜、食事をともにして、
      新しいいけにえ、愛のうたげを教会におゆだねになりました。
      この晩さんの偉大な神秘にあずかるわたしたちが、
      キリストの愛を受け、生きる喜びに満たされますように。

      Sacratissimam, Deus, frequentatibus Cenam,
      in qua Unigenitus tuus, morti et traditurus,
      novum in saecula sacrificium
      dilectionisque suae convivium et Ecclesiae commendavit,
      da nobis quaesumus ut ex tanto mysterio
      plenitudinem caritatis hauriamus et vitae.

      O God, who have called us to participate
      in this most sacred Supper,
      in which your Only Begotten Son,
      when about to handle himself over to death,
      entrusted to the Church a sacrifice new for all eternity,
      the banquet of his love,
      grant, we pray,
      that we may draw from so great a mystery,
      the fullness of charity and of life.

今日の集会祈願は新しく作成されたものです。第二バチカン公会議前の祈願はなぜかイスカリオテのユダを前面に出しています。ラテン語の文は下記のようになっています:

Deus a quo et Judas reatus sui poenam, et confessionis suae latro praemium sumpsit…..

そしてある英語の非公式訳は次の通り、三つの表現を取り上げたいと思います。 O God, author alike of the punishment that befell Judas for his guilt, and of the penitent thief’ reward….

Latro−後悔した盗人をさすことばです。最後の晩餐の中心的なテーマとの関連はない祈願。

  現在の祈願のたたき台は500-600年ころの Verona Sacramentaryに収容された叙唱の文です。ある典礼学の専門家はこの祈りの理解を深めるために, Benedict XVIの使徒的勧告「愛の秘跡」を再読するよう勧めています。少なくてもその第一部には示唆に富んでいる文書あります。

三つの表現を取り上げたいと思います。三つの表現を取り上げたいと思います。

traditurus, novum in saecula sacrificium
イエスの死はすべての時代のためのいけにえ。今までのいけにえを完成したそのイエスの死以外、以降のいけにえは無用です。

traditurus, novum in saecula sacrificium
感謝の祭儀であるミサは愛のうたげ、神の愛に出会う場、その愛に満たされ者として、その愛を分かち合うためにごミサの最後に派遣されています。

ex tanto mysterio plenitudinem caritatis hauriamus et vitae.
その偉大な神秘に与って、いのちと慈愛、博愛に。
教会はご聖体で作られています。ご聖体は私たちの命、教会の命。そのご聖体に、み言葉にも、養ってもらうために一つの信徒の共同体としてイエスのもとに集まってきます。

  ミサ典礼書を見れば供え物の準備の間に歌う歌は指定されています。「聖木曜日―主の晩さんの夕べのミサ」。指定された歌は “Ubi caritas et amor”「愛といつくしみのあるところ」(典礼聖歌321番)。800年ころに有来するこの歌は第二バチカン公会議前、洗足式の間に歌われたがいまの位置、感謝の祈り、奉献文前にするのはその祈りの前奏になります。
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キリストの聖体の叙唱 (第一)

(聖なる父、主の晩さんを祝うわたしたちは、あなたの限りないいつくしみをたたえ、感謝の祈りをささげます。)

      永遠の祭司キリストは、
      ご自分を救いのいけにえとしてあなたにささげ、
      唯一永遠の奉献を全うされました。
      キリストのことばにしたがってわたしたちは
      その記念を行いいのちのパンと救いの杯を受けて、
      主が来られるまでその死を告げ知らせます。

      Qui, verus aeternusque Sacerdos,
      formam sacrificii perrenis instituens,
      hostiam tibi se primus obtulit salutarem,
      et nos, in sui memoriam, praecit offerre.
      Cuius carnem pro nobis immolatam
      dum sumimus, robaramur,
      et fusum pro nobis sanguinem dum potamus, abluimur.

      For he is the true and eternal Priest,
      who instituted the pattern of an everlasting sacrifice,
      and was the first to offer himself as the saving Victim,
      commanding us to make this offering as his memorial.
      As we eat his flesh that was sacrificed for us,
      we are made strong,
      and, as we drink his Blood that was poured out for us,
      we are washed clean.

  日本語のミサ典礼書にはラテン語のミサ典礼書と違ってキリストの聖体の叙唱は一つしかありません。その上、原文にない表現「主の晩さんを祝うわたしたちは」が挿入されていますし、多少編集されています。原文にもっと近い訳をすれば、次の通りになるでしょう。

  (文字通りのケレハの私訳)

      (キリストは)真(まこと)、永遠の祭司
      永遠のいけにえの形を設定し、
      救いの捧げものとして初めてご自分をささげました。
      ご自分の記念としてこのそなえものをささげるように私たちに命じました。
      わたしたちのためにささげた自分(キリスト)の体(肉)をいただくことによって強くなり、
      わたしたちのために流された自分(キリスト)の血いただくことによってきよめられています。

  1〜3行目まではルカ福音書22:19b の次のことばを思い起こします。「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのようにして行いなさい。」また感謝の祈りの時にも耳にします。そして、4〜6行目までは1コリント11:23-26, 特に26節を応用しています。この応用によって原文に強調されたキリストの御体、御血をいただく実りは伝えられいません。この大切な教えを伝授する場はなくなります。

  今作業中のミサ典礼書の新しい訳、決定版として、この叙唱にある教会のご聖体についての教えの大集成は伝えられるような翻訳を期待したい。

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