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典礼における信徒の奉仕職
―信徒としての司祭職―

会衆の一人としてG

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言葉

はじめに......「典礼ひとくちメモ」その1を多少加筆、訂正して引用します。

ミサは対話

  第2バチカン公会議後の教会の典礼において一番大きな変化は何だったのでしょう。ほとんどの人はミサなどの式典の国語化と答えるに違いない。その典礼の国語化によって生まれたもう一つの変化がありました。
  公会議前、司祭は壁に向かってミサを捧げていました。信者にとってミサに与ることは「聞く・聴く」ということでした。今、ミサは背面ではなく対面になりました。ミサ中に司式司祭と会衆の間に対話が行われるようになりました。ミサは 日本語の「ミサ典書」に下記のように翻訳されています。

司祭:父と子と聖霊のみ名によって
会衆:アーメン


  その時の会衆の答えは、一つで終わります。日本語でもない言葉ですが、その「アーメン」は大きな、深い意味を持っています。その言葉は一つの信仰の告白、心の同意を表しています。 数えてみると10回以上になります。そして、その中で古来から一番大切にされたのは、"The Great Amen”です。奉献文の最後に唱えられます。感謝の祈り(奉献文)の間に祈られた、行なわれたことにたいしての心からの同意、信仰の告白です。

  司式司祭として、ミサの対話的構造をもっと大事にすることは会衆のミサへの意識的かつ行動的参加を育むのでその「アーメン」一つ、一つを再確認するようにお勧めします。 そして、司式司祭が注意しなければならないのが、その「アーメン」が返ってくる前に次の動作や祈りにうつらないようにしなければなりません。ご聖体拝領の時はとくに注意をしなければならないでしょう。

  余談ですが、今から数十年前のことです。私は父親と一緒に地元の教会の平日のミサに出かけました。父は現役の時でも機会と時間があったら平日のミサによく行きました。平日のミサに初めて侍者として奉仕する機会がありました。父に、私の方から「来なくてもいい」と父に言いましたが追いかけてきました。また、司祭叙階してから帰省したとき地元の主任司祭から依頼があって平日のミサの司式を担当させてもらったときも父親はよく聖書朗読、侍者等の奉仕していました。
  ある日のこと、ミサに少し遅れて父と会衆席に座りました。供え物の準備の時と奉献文の時、あることに気づきました。父は手に何も持たなくとも小声で司式司祭が唱えている通常の祈りを唱えていました。司式司祭が第二奉献文を唱えようとも第三奉献文を唱えようとも父は見事に小声で唱え、祈りました。父本人の祈りになったと感動したという言葉ではあらわせないほど、私の心に刻み込まれました。

  現在、日本で発行された祭壇用のミサ典礼書また増補版(2014年)のミサの司式次第とオリエンス研究所発行、東京教区認可済みの「ともにささげるミサ―ミサ式次第―会衆用」(2014年7月10日、改訂版第13 刷発行)にその区別は必ず明記されていません。ローマミサ典礼書第三版のルブリカを見る限り三つの表現に出会います。

Populus respondet/acclamat(会衆との応答/歓呼)
Omnes(全員)
Una cum populo(会衆と一緒に)

  司祭は会衆とともに唱える箇所は二箇所しか明記されていません。主の祈りと拝領前の信仰告白です(「ともにささげるミサ」には会衆と記されています)。
  Omunes・・・回心の祈りの第一形式、朗読後の「神に感謝」、「キリストに賛美」と派遣祝福後の「神に感謝」となっており、それ以外は会衆となっています。司式司祭は声を添えず、代わりに信徒の返答を受け止めます。

  そして、もう一つ指摘するならば英語圏のミサ式次第に、日本でいう共同祈願は、The Prayer of the Faithfulとの名前は使われています。その時唱えている祈りの意向は個々の信仰信徒共同体のもののはずですが「聖書と典礼」に掲載されている例文を使う教会が多いのが実情です。「典礼ひとくちメモその10」でこの件に触れたのでどうぞうご参照ください。
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