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典礼における信徒の奉仕職
―信徒としての司祭職―

会衆の一人として@

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姿勢、所作・動作 その1

聖堂に入る直前、指を聖水に浸して十字架を切る信徒は多いと思います。その時の信徒たちの所作をみると、習慣とういか条件反射的にやっているという印象を受けます。実はこの所作は少なくても二つの意味を持っています。一つ目は自分の洗礼を思い起こす。幼児洗礼の時、司式司祭、両親と代父・代母、また成人の入信式の時も司式司祭と代父・代母は受洗者の額に十字架をきる。信徒の共同体への歓迎の印として。二つ目の意味はもうお分かりでしょう。自分がその日、その時、そこにミサを捧げる共同体の一員としてこれからお聖堂に入る意志を表現する、確認するために。 ある教皇様は自分の司祭・司教叙階式の日よりも自分が洗礼を受けた日を大事にしたい、それは自分の信仰の原点だからと言われております。

ミサの間に立つこと、座ることの二つの動作があります。

「立つこと」は主を迎える姿勢、旅立つ用意ができたいう動作による意思表示です。旧約の時代から祈る時の姿勢で、手を広げて、手のひらー掌を上に向けて神のみ旨を受け入れる開いた心を表現します。

「座ること」は祈りの姿勢であると同時に聴く心を表明する姿勢でもあります。

心を静かにしてみ言葉を聴くことは、自分の心の中に語りかけてる神様、イエズスの声に耳を傾けることです。み言葉の祭儀・典礼の間に目で「聖書と典礼」、「毎日のミサ」にある文字を追っている人よく見かけますが、ゆっくり読まない限りその言葉は心の奥に入りませんし、響来ません。ミサにあずかる準備として聖書と典礼」、「毎日のミサ」でその日の朗読を読んで、黙想してミサに与りましょう。あくまでもみ言葉の祭儀は聴く心が大切なのです(「読む」ことに不自由をな方、「聞く」ことに不自由な方は例外です)。

ところで答唱詩編の答唱句は「聖書と典礼」また「毎日のミサ」に印刷されていますので、典礼聖歌を開いて探すのは無用の行為じゃないでしょうか。「祈る」心、「聴く」心に対してそのような行為は必要ありません。答唱詩編の節を「歌う」ことは祈ること、それを唱えるのは先唱者の役目です。そこにその「祈り」に一致して、「応唱」という行為により、互いに祈りあいましょう。そして、それを担当する奉仕者(聖歌隊)はその役割である典礼奉仕を確認しましょう。
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