名古屋教区典礼委員会
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第45回  典礼研修会

  2017年2月11日、南山教会マリア館ホールに於いて第45回名古屋教区典礼研修会を開催した。今回は教区長である松浦司教に講師を依頼し「生きた典礼への招き〜ゴロー司教の典礼アイデア集から〜」と題して準備した。約120名の信者が集まり学びを深めた。 12:30より受付を開始し予定時刻の13:00を迎えると名古屋教区典礼委員長であるケレハ神父の挨拶で研修会が始まった。ケレハ神父は挨拶の中で今回のタイトルを決めたいきさつを紹介した。前回の研修会では伝統的な典礼音楽を扱ったが、今回は「それが全てではない」という視点でそれ以外の典礼の工夫を模索することを意識した。 マイクは松浦司教に渡り祈りをもって学びが始まった。初めの祈りはテゼの祈りを用いた。ゴロー司教から丁寧に「祈り」についての語りとテゼのスタイルについての解説を施した上での取り組みということもあり違和感なく祈れたように感じた。 司教は祈りとは神に向かって心を開くことが大切である点を伝え、また、私たちは歌や言葉を用いて祈る時に、知っている歌や言葉であっても手元のテキストから目を離さないという弱点があることを諭した。テキストに向けられている目を神の心に向かることがより祈りを深めるのだ。

  司教の呼びかけに答え急きょ編成された伴奏スタッフの協力でBless the Lordをささげた。祈りを終えるとスムーズに講義に移った。「典礼は信仰を生きる力となる」そのために私たちが、ややもすると陥りがちな「掟としての典礼」を自覚し、そこから解放する必要がある。 典礼の中心がミサであることは紛れもないことだが、日曜日はミサ行かなければいけないといった生活習慣に陥ると典礼はその価値を損なってしまう。私たちの信仰生活は信仰によって支えられイエスの生き方をなぞってこそ味わい深くなるのだが、社会に参加する日々の暮らしではなかなかうまく行かずどこか日常と切り離してしまっていないだろうか? 日曜日だから教会に行ってミサに出なければいけない。そうなるとこれは掟としての典礼に成り下がり喜びをもたらすものではなくなってしまう。「生きたミサ」の工夫に於いてゴロー司教の提案は、神学や規則に傾倒するものではない。また「司教が言うから正解」ではなくあくまで工夫の一例としての紹介であり、それぞれの共同体の事情で柔軟に成長させればよいと語る。

  典礼を準備する上で、たとえば歌を決めることなど美しさにこだわることは良いことなのだがセンスと趣味が影響する点を自覚した方が良い。その経験や専門性の高さなどから同じ人が係として奉仕に当たると選曲が偏ってしまう傾向がある。何かを記念する特別な意味でささげる典礼と、毎週ささげる信仰生活基盤としての変わらない典礼は分けて考えた方が良い。 などなど典礼の工夫をする上での留意事項についてもしっかりと教授された。典礼暦が救いの歴史に基づいていることや、ミサの場面、司祭の仕草の意味など実に多岐にわたる話に受講者は熱心に聞き入っていた。少年時代の侍者としての経験、神学生時代のエピソードを織り交ぜ時に笑いを誘いながら興味深く話を聞かせた。

  休憩を挟んでの後半では、歌の紹介など具体的な典礼の工夫を示し、曲によっては参加していた司祭にその場で無茶ぶりをするなど集いの一体感が強まる空気が会場を包んでいた。練習した歌を用いて終わりの祈りがささげられた。皆がテゼを歌い、奉仕者が真福八端を唱え締めくくられた。 ルールや規則、経緯、正しいことを知った上で、しかしその場に合った工夫や選択によって可能性が広がり祈りが深まることを感じ取ることのできた時間を過ごせたのではないだろうか?

  あくまで私の主観だが、そのことを象徴する松浦司教の大阪時代のエピソードはこれだ。あるご高齢の信者のもとにご聖体を届けた時の話、「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」と定められた言葉で祈り「キリストの体」と唱え、その方にご聖体を授けると『へぇ、おおきに』と受けたと言います。「アーメン」と唱えなければだめじゃないかと咎めるのか?今日、私たちの体験した学びは、それを解き明かしていると思う。(名古屋教区典礼委員M・A)
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2月11日
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